新作オモテ記事の映画を極めろ一直線女子 左翼・前衛!?日本ヌーヴェルヴァーグの全映画監督作品22 映画俳優渦巻く男女の忘却開錠を公開いたしました。
以前のオモテブログ「映画を極めろ一直線女子」の11月18日公開の記事であるポスターについて少し取り上げました。この謎の部分に独自に迫りたいと考えて今回の記事に至りました。
その記事の元リンク先映画を極めろ一直線女子 『水戸黄門』や『大岡越前』の生みの親を橋渡した謎の映画会社双方にアラカン「嵐」が吹いていたです。
記事題名は久々にシンプルすぎる「歴代日本映画史を揺る覆す謎のポスター登場」となりました。
「お馴染み捕物帖大会」
「お馴染み捕物帖大会」と題された片岡千恵蔵(かたおかちえぞう)と嵐寛寿郎(あらしかんじゅうろう)のポスターです。
この両名は日本映画歴代主演スターであり、平均寿命が短い1960年代の前半時点では歴代最長級の40年ほどに及ぶ長年の名盟友同士、嵐寛の映画デビュー前の1927年以前から知り合い、事実上の友人なのは有名(千恵蔵は1923年に植木進名義でデビュー済み)ですが、
共に映画の主演代表作は軽く100作を越していて、確認できる主な主演映画の代表作は世界歴代1位の千恵蔵(200強)と2位の嵐寛(140強)です。ちなみに比較対象として高倉健70ほど、三船敏郎50ほど、助演を含むとさらに本数が増して変動がありますが、ここは主演のみです。
ポスターの映画の題材は千恵蔵の10近くあるあたり役の一つの「遠山の金さんシリーズ」と嵐寛(アラカン)の二大当たり役の一つ「右門捕物帖シリーズ」の映画、ポスターはこのうちの属する『遠山金さん捕物帖 いれずみ奇遇』と『むっつり右門捕物帖 緋鹿の子異変』です。
「お馴染み捕物帖大会」と題された謎の映画ポスター
ub28504遠山金さんいれずみ奇偶むっつり右門捕物帖緋鹿の子異変ポスター 嵐寛寿郎 片岡千恵蔵
上記は出品作のポスターのリンク先と写真
歴代2大名優の大きくは不明の謎のポスター
このポスターはいつごろに制作されたポスターか不明です。『むっつり右門捕物帖 緋鹿の子異変』は『右門捕物帖 緋鹿の子異変』という近いタイトルが戦後の1952年1月3日(正月映画)として新東宝映画で公開しているため、戦後の可能性が高そうですが、『むっつり右門捕物帖 緋鹿の子異変』の題名は正式なタイトルではなく、記録としてはあくまで『右門捕物帖 緋鹿の子異変』が正式です。
問題は片岡千恵蔵の『遠山金さん捕物帖 いれずみ奇遇』です。監督は映像化監督の事実上の巨匠の滝沢英輔とあります。
滝沢英輔の簡単な映画実積
滝沢英輔は、監督と子役俳優と制作と録音の4役で100本などの世界的記録を持つ世界的大巨匠のマキノ雅弘(当時マキノ正博)の「浪人街シリーズ」の3作や「崇禅寺馬場」(1928)などの名作の助監督を経てマキノプロダクションで監督デビューして現代劇『パイプの三吉』(1929)は高評価、前進座とP.C.L.(現東宝)の時代劇「戦国群盗伝」の前後編(1937)、東宝の時代劇『忠臣蔵 前篇』(1939)の大ヒットや年間上位の股旅時代劇の大ヒット『伊那の勘太郎』(1943)、
戦後は時代劇の名作の日活『国定忠治(1954)、現代劇『白夜の妖女』(1957)、年間上位の大ヒット現代劇『世界を賭ける恋』(1959)
、現代劇『しろばんば』(1962)、現代劇「男の紋章シリーズ」の4作(1964~1965)などを時代劇や現代劇と多くの代表作を残した映画監督です。
滝沢は戦後の日活の名匠で、若手が多い戦後の日活の専属監督の中でベテランとしての重要な引き締めの役割も任されました。
実は『遠山金さん捕物帖 いれずみ奇遇』の監督と表記されている名匠の滝沢英輔は、片岡千恵蔵の遠山の金さんの映画を監督しているデータは存在していない、それ以前に千恵蔵と滝沢そのものが1作もコンビが存在していない。記録が1作も無いのです。
ポスターが事実だとすると主演作のデータが存在しないものにコンビがあるということかもしれない。千恵蔵と滝沢はマキノプロダクション時代に知り合いだったかもしれないが、この頃は完全に千恵蔵は時代劇俳優、と滝沢は助監督前だった。
1928年4月公開の時代劇『仇討世相録』(吉良崎荘馬役)が千恵蔵最後のマキノ映画であり、滝沢の名前が最初に登場する最初の助監督名義が、1928年10月公開の時代劇『浪人街 第一話 美しき獲物』であり、約半年ずれていることがわかる。
千恵蔵が千恵プロを創立(1928年6月の時代劇『天下太平記』(気まぐれ冠者役 1本目からゴールデンの監督=稲垣浩、脚本&原作=伊丹万作、撮影=石本秀雄のゴールデントリオ)が最初とされる、
千恵プロの1929年4月の『足軽浪士』(この時点で千恵プロ映画は15作ほど製作)が公開した頃、滝沢は1929年4月の現代劇『ある女と画家』(のちの名脇役同士の岡島艶子(岡嶋艶子)、荒木忍の主演)から監督へ昇進
滝沢が助監督時代から世話になったマキノプロダクション(マキノ映画)を1931年に後にした沢村国太郎と滝沢は、同じ年の1931年12月に時代劇スター沢村国太郎のたった1本の制作に終った幻の映画会社、沢村国太郎プロダクション(国太郎プロ)の『振袖勝負』(配給は東活)の1本を監督、磯の源太や振袖勝負、源太時雨としても何度も映画化されている長谷川伸の有名な股旅作品です。東活映画を1932年のみ監督、その後、1933年から沢村国太郎とともに日活へ移籍します。
時代劇初期の伝説の映画女優とマキノ家
戦前 映画チラシ 新編 斑蛇 1928年 昭和3年 マキノ智子 無声 資料 古写真 シネマスター 俳優 女優 昭和レトロ 日活 しょうわ
今回取り上げてもいる千恵蔵や滝沢監督とも縁が深い、マキノ映画の貴重なポスター、素晴らしいレイアウトと窓分けです。『斑蛇 新篇』とあり、『斑蛇』の2作目だと考えられます。
1920年代から1930年代にかけて最低でも110作以上の映画に出演した時代劇中心のヒロイン女優、伝説の映画女優の一人ともいわれるマキノ智子(別名義マキノ輝子など、のちの時代劇スター沢村国太郎の夫で、日本最初の映像作品巨匠(同時に映画巨匠)で日本映画の父の牧野省三の娘で、大巨匠マキノ雅弘の親類、兄弟名優の長門裕之と津川雅彦の実の母親など、多数の色々な言い方がある複雑な人物)
マキノ智子の主演の代表的な時代劇映画の2つが1928年『斑蛇』(別題『斑蛇 前篇』)であり、続編の『続・斑蛇』(別題『斑蛇 新篇』、公開は1928年末、事実上の1929の正月映画)が制作されました。
『斑蛇』の2本は阪東妻三郎の代表作でも知られる戦前メインの時代劇の名匠の二川文太郎と原作と脚本の寿々喜多呂九平の名コンビです。
両雄のたった2本の同じ日活の1年以内 幻の21作?!
このときようやく滝沢と千恵蔵との関連した”側面的な縁”が生まれます。このときの千恵プロは配給が日活、このときに作られた映画が『遠山金さん捕物帖 いれずみ奇遇』の可能性があるためです。
ですが、日活は2本のみの留まり、1935年に市川右太衛門の右太プロやその提携の新興キネマで監督をして1937年に東宝の前身の一つのP.C.L.(株式会社ピー・シー・エル映画製作所)へ移籍、1938年からは東宝で監督をしていきます。じつは1933年と1935年の間の1年間が空白です。この空白で『遠山金さん捕物帖 いれずみ奇遇』の可能性が作られていた可能性もあるかもしれません。ですがこれは低い可能性でしょう。千恵プロは解散しているためです。
千恵プロは解散理由を「千恵蔵いわく、自身製作による映画は十分にやりきった」という趣旨の記録が一部に残されていますが、1937年に日活に吸収されて、千恵プロはその概念となりました.滝沢が日活に2本のみで一次的に在籍していたのが1933年のみ、すれ違っています。千恵蔵が正式に日活に移籍したときに滝沢はP.C.L.の監督でした。日活の側面的な縁の2本からだいぶ距離が開いています。
その後、P.C.L.は大手映画会社の東宝となり、日活のライバル会社となります。『遠山金さん捕物帖 いれずみ奇遇』が現実に公開されていたとすると戦後の可能性が高いといえるでしょう。
千恵蔵の遠山の金さんの映画は通産21作(現存バージョン1本含む)ということになります。
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